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シン・コンフィアンス株式会社 IPO物語 ~「熱狂」から「公器」へ。未熟な組織が上場の鐘を鳴らすまで~
【第1話】
「顧客第一」の呪縛 ~ショートレビューの洗礼~
【テーマ】N-3期 / 収益認識基準と実態把握
1.熱狂の正体
東京、渋谷区の雑居ビル4階。エレベーターを降りると、そこにはむせ返るような「熱気」があった。 シン・コンフィアンス株式会社。創業10年目、従業員50名。 「IT×コンサルティング」を掲げ、企業のDX支援を行うこの会社は、今まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長していた。
オフィスの入り口、一番目立つ場所に、古びた額縁が飾られている。 中の文字は、創業者であるクドウ社長の直筆だ。墨痕鮮やかに、こう書かれている。

これが、この会社のDNAであり、憲法だった。 大手SIerが「仕様変更には追加費用と1ヶ月の納期が必要です」と断る案件でも、シン・コンフィアンスは断らない。「やります! 今週末までに!」と即答し、徹夜で仕上げて納品する。 その泥臭さとスピード感が、気難しいクライアントたちの心を掴み、右肩上がりの売上を作ってきた。
豪快に笑うクドウ社長を、経理マネージャーのワタナベは心から尊敬していた。 ワタナベは創業期に入社した古参社員だ。金庫番として、税務調査も資金繰りも、社長と二人三脚で乗り越えてきた自負がある。 そして今、彼は社長から最大のミッションを託されていた。

「IPO(新規上場)」である。
「ワタナベ、俺たちの会社を上場させるぞ。東証の鐘を鳴らして、この雑居ビルから卒業だ。社員みんなに、自慢できる会社にしてやりたいんだ」
社長の夢は、ワタナベの夢でもあった。 (任せてください。経理処理は完璧です。税理士の先生とも連携して、1円のズレもなく帳簿をつけていますから)ワタナベは楽観視していた。売上は伸びている。利益も出ている。不正などしていない。 上場審査など、これまでの激務に比べれば通過儀礼のようなものだ、と。
しかし、その自信は、たった数時間後、脆くも崩れ去ることになる。
2.氷の監査人
N-3期(上場申請の3期前)。 上場準備の第一歩となる「ショートレビュー(予備調査)」の日がやってきた。 ショートレビューとは、監査法人が「この会社は監査を受けるレベルにあるか」を診断する、いわば上場の「入学試験」だ。会議室に現れたのは、大手監査法人から派遣された公認会計士・氷室玲子(ヒムロ)だった。 細身のスーツを着こなし、感情の読めない冷ややかな瞳をした女性だ。彼女は挨拶もそこそこに、ワタナベが徹夜で用意した分厚い決算資料の山を、無造作に手元に引き寄せた。
彼女の声は低く、よく通った。 午前中は帳簿の突合に費やされた。ワタナベは自信満々に応答した。領収書の整理、仕訳の正確さ、月次決算の早期化。どれも完璧なはずだ。 しかし、ヒムロの表情は一度も緩まなかった。彼女が見ていたのは、「計算が合っているか」ではなく、「数字の根拠となる『実態』があるか」だったからだ。
昼休憩を挟み、午後のセッション。 ヒムロはホワイトボードの前に立ち、青いマーカーを手にした。 同席していたクドウ社長が、「どうです? うちの経理は優秀でしょう」と胸を張る。ヒムロは社長を見ず、ホワイトボードに大きな「×」印を書いた。
会議室の空気が凍りついた。 ワタナベが裏返った声で尋ねる。
ヒムロは振り返り、淡々と言った。
ワタナベは言葉に詰まった。 根拠。それは現場の開発リーダーであるサイトウからの「だいたい3割終わりました」という口頭報告だったからだ。ヒムロは畳み掛ける。
クドウ社長が口を挟んだ。
さらにヒムロは、別のファイルを指差した。
ヒムロの言葉は、シン・コンフィアンスの企業文化そのものを否定する刃(やいば)だった。 『NOと言わない』。その美徳が、上場審査という土俵では「管理不全」という罪になる。ヒムロは無慈悲な結論を告げた。
3.悪魔の囁き

ワタナベは目の前が真っ暗になった。 上場申請のためには、直前々期(N-2期)に入る前のこの段階で、安定した収益基盤を示さなければならない。ここで赤字になれば、上場スケジュールは最低でも2年、いや3年は遅れることになる。
クドウ社長が激高し、椅子を蹴って立ち上がった。
ワタナベが必死に止める。監査人を敵に回せば、上場への道は完全に閉ざされる。ヒムロは動じなかった。
ショートレビューは最悪の雰囲気で終わった。
そう言い残し、ヒムロは去っていった。
その夜、オフィスには重苦しい空気が漂っていた。 クドウ社長は社長室に籠もり、出てこない。ワタナベは自分のデスクで、頭を抱えていた。 (どうする? ログなんて存在しない。今からタイムマシンで過去に戻って、エンジニアに日報を書かせることなんてできない……)上場は延期か。社長は失望するだろう。社員たちのモチベーションも下がる。
「ワタナベに任せておけば安心だ」
そう言った社長の笑顔が脳裏をよぎる。 期待を裏切りたくない。自分の無能さを認めたくない。その時、ワタナベの脳裏に、ある考えが浮かんだ。 それは監査人として、経理マンとして、決して越えてはいけない一線だった。 しかし、会社を守るためなら……。ワタナベはふらりと立ち上がり、開発ルームへと向かった。 深夜2時。モニターの明かりだけが灯る部屋で、開発リーダーのサイトウが一人、カップ麺をすすりながらコードを書いていた。
サイトウは驚いて振り返った。
パーカーのフードを被り、目の下にクマを作った彼女は、この会社の創業メンバーの一人だ。
ワタナベの声は震えていた。
サイトウの手が止まった。
ワタナベは一息に言った。
サイトウは目を見開いた。
ワタナベは自分に言い聞かせるように早口で喋った。
サイトウは即答した。
ワタナベは床に膝をつき、頭を下げた。
その言葉は、創業メンバーであるサイトウにとって呪文のような効力を持っていた。 彼女は深いため息をついた。
その夜、ワタナベとサイトウは朝までかかって、数千行に及ぶエクセルデータをでっち上げた。 ありもしない会議の時間、実際よりスムーズに進んだ開発工数。 それは完璧に整合性の取れた、しかし魂のない数字の羅列だった。
4.形式上のクリア
一週間後。 ワタナベは、製本された分厚い「開発進捗報告書」をヒムロに提出した。
ヒムロはその資料を受け取り、パラパラとめくった。 あまりにも綺麗すぎる数字の推移。空白のない備考欄。 彼女の鋭い目が、一瞬ワタナベを捉えた。 心臓が早鐘を打つ。バレたか?しかし、ヒムロは小さく息を吐き、資料を閉じた。
ヒムロは冷徹に釘を刺した。
こうして、シン・コンフィアンスは首の皮一枚でショートレビューを通過した。 赤字転落は回避され、上場プロジェクトは継続となった。 社長は「よくやったワタナベ! やっぱりお前は頼りになる!」と肩を叩いて喜んだ。しかし、ワタナベの心に晴れ間はなかった。 彼は、最も重要な「課題の根本解決(=顧客第一主義の暴走を止めること)」を先送りし、「書類上のつじつま合わせ」という安易な道を選んでしまったのだ。 そして、現場のサイトウに「嘘」をつかせた。その負い目(貸し)は、これから始まる長く苦しい上場準備期間において、ワタナベをじわじわと苦しめることになる。この時のワタナベはまだ知らない。 この「小さな嘘」が、やがて監査法人を巻き込み、組織を崩壊させる大事件の火種になることを。
(第2話へつづく)
この記事を書いた人
共同代表
(公認会計士・税理士・CFP)
熊谷 和哉
2000年有限責任監査法人トーマツ入社、上場会社の会計監査とともに、会計基準対応・IPO支援・内部統制構築等アドバイザリー業務に従事
2021年、20年超所属したトーマツ退社後、これまでの経験・知見を活かして自らが主体となるべく、デロイト トーマツ出身者を中心とした税理士法人・会計コンサルティングファームであるコンフィアンスグループを設立し共同代表として参画